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鉄路憧憬
 主任研究員Aの旅の歴史は鉄路と共にありました。後に自動車免許を取り、徐々に車旅(くるまたび)に移行し、現在の移動研究室に至るわけですが、やはり鉄路へは特別な思いがあります。
 初めての鉄旅は、国鉄清水港線へのものでした。当時話題だった「一日一往復の通学列車」という記事がたびたびメディアをにぎわした頃でした。今ではこの様なスーパーローカル線はもう姿を消しましたが、当時は一日二往復しかしない列車、同様に三往復のみ、四往復のみという路線はさして珍しくない時代でした。そんな時代背景においても一日一往復、つまり朝8時頃清水駅(東海道線)を出た汽車は途中高校生を乗せ、終点の三保駅を目指し、そこで8時間停車し、帰りは16時頃三保駅を発って又高校生を拾って帰って来るという信じられないダイヤだったのです。三保駅とは景勝「三保の松原」の事で、これでだいたいどの辺を走っていた汽車なのかご理解いただけるかと思います。
 この旅を機に当時の国鉄が推進していた「チャレンジ2万q」に傾倒していきました。これは日本の国鉄線の全ての路線(224路線)に完全乗車しようと言うもので、私は210くらいまで行きました。(途中で飽きてしまい、車旅に移行していました)
 このコーナーでは鉄道旅で出会った様々な場面の内、スチール写真が残っているものを特集したいと思います。(全てスチールの上、わからない人には徹底してつまらないですから、覚悟してご覧下さい。)


ミニミニデータ編
初めて乗った国鉄線 国鉄 清水港線
国鉄未乗線区間 妻線(宮崎県) 宮原(みやのはる)線(大分県)
矢部線(福岡県) 芸備線三次ー広島間(広島県)
境線(鳥取県) 魚沼線(新潟県) 赤谷線(新潟県)
日中線(福島県) 岩泉線(岩手県) 白糠線(北海道)
初めての温泉 青森県 下北半島 奥薬研温泉 かっぱの湯
初めて乗った夜行列車 普通列車 大垣行き (東海道本線)
好きだった夜行列車 普通列車 山陰(山陰本線・京都ー出雲市間)
一番の思い出   日本最長の運行時間の列車(旧式客車の鈍行・豊岡発門司行きで乗車時間およそ19時間)に完乗したこと。(1984年当時)
当時ダイアが一日二往復だった列車 湧網線 湧別ー中湧別支線(北海道)
当時ダイアが一日三往復だった列車 深名線(北海道) 角館線(秋田県) 日中線(福島県)
当時ダイアが一日四往復だった列車 美幸線(北海道) 標津線(北海道) 胆振線(北海道)
士幌線(北海道) 富内線(北海道) 阿仁合線(秋田県)
宮原線(大分県) 標津線 中標津ー厚床支線(北海道)
現代の終着駅 根室本線・根室駅 宗谷本線・稚内駅 札沼線・新十津川駅
留萌本線・増毛駅 日高本線・様似駅 津軽線・三厩駅
大湊線・大湊駅 岩泉線・岩泉駅 のと鉄道・蛸島駅
越美北線・九頭竜駅 長良川鉄道・北濃駅 阿佐海岸鉄道・甲浦駅
島原鉄道・加津佐駅 日南線・志布志駅 指宿枕崎線・枕崎駅
「当研究所流の」終着駅の定義
(何の根拠もありません)
1.盲腸線の終点であること。(列車の行き先にあらず)
2.乗車時間が比較的長いこと。(すぐついたらいけない)
3.降り立った時に最果て感が漂うこと。
現代のローカル線 根室本線 宗谷本線 釧網本線
日高本線 五能線 岩泉線
山田線 只見線 飯田線
大糸線 飯山線 高山本線
紀勢本線 山陰本線 木次線
予土線 豊肥本線 島原鉄道
指宿枕崎線
「当研究所流の」ローカル線の定義
(何の根拠もありません
が全て満たさずとも可)
1.総じて沿線人口が少ない事。
2.乗客が少なく、座席で横になって寝れる事。
3.ダイヤが不便な事。
4.特急以上の優等列車が走っていない事。
5.無人駅が多く、駅前で車中泊できる事。
6.乗車時に「なぜここに鉄道を敷設したのだろう」と直感的に感じられる事。
7.窓望が良く、乗車することその物に目的を見いだせること。




廃止駅の硬券入場券
近日公開


最果て編


   当時の国鉄松浦線、現在の松浦鉄道のたびら平戸口駅です。最果て願望は当時とても強く東西北南全てを極めたいと考えました。   この中で一番お気に入りなのはここ、鹿児島県山川町の西大山駅です。画像は1985年当時初めて訪問した時のものです。ここには現在までに5回くらい再訪していると思います。現在の画像は当研究所の県別温泉リスト鹿児島県の「成川温泉」をご覧下さい。
   なぜか北の画像は最東端の根室本線「東根室駅」の画像のみ見つかりません。稚内のこの画像は2月の北海道です。意外に暖かな年でした。
その内だんだん何かしらの「碑」があるとその前で記念撮影するようになっていきました。
  非常に有名なJR最高地点。しかし思いの外風情のないところにあります。この他、「野辺山駅」は日本最高所にある駅の碑があったと思います。  これはこの中では一番レアでしょうか。「西脇駅」とは廃止された国鉄鍛冶屋線の途中駅です。現在北条鉄道も三木鉄道もかろうじて存続している中、鍛冶屋線だけが廃止されました。なぜこんなところで降りたのか今では記憶もおぼろですが、確か前夜に夜行で同席した方に誘われていった様な気がします。※三木鉄道も廃止されました。
  阿蘇の豊肥線の波野駅が一番標高が高いというのはここに行くまで知りませんでした。
  これに至っては最南端の駅ではなく、最南端の街です。
   厳冬期のオホーツク海。20年前は流氷も普通に来ていました。現代では画像の中の一番いい状態の流氷も当時はオホーツクに行けば当たり前にみれました。ちなみにこの画像の背後は接岸した流氷で海がなくなっています。(見渡す限り白い原野でした)また、この当時から喫茶店の「停車場」はあった気がします。


         旅立ち編
  丁度青春18のびのび切符が発行になった年でした。青春18切符は発売当初5日間で8千円でしたが、すぐに6日間有効で1万円になりました。今と同じ5枚綴りで、5枚目のみがオマケに一日ついて2日間有効の券となっていて1日券4枚と2日券一枚で6日間有効だったのです。


  当時のダイヤは・清水発8時10分・三保発16時14分であった。朝東京を東海道本線の始発で発っても清水発には間に合わず、仕方なく14時頃東海道本線で清水着、この後タクシーで三保駅へ。つまりこの画像は17時頃戻ってきた時に車両をバックに撮影しました。
  タクシーを降り立った時、初めて目に入った画像。改札の正面は8時間の眠りから覚めようとする旧客。音が何もない駅に一人佇むとまるで北海道の原野にいるようだった。当研究所の旅はここから始まりました。

      
1983年3月
美しい名前の駅である。


車両編


   普通列車 山陰です。
 京都ー出雲市間を結び、今のムーンライトと同じく18切符で乗れました。
   当時年末は必ず山陰に行くというのがパターン化してました。急行大山や、長距離鈍行もここから乗り継ぎました。
   急行大山の発着を見るために福知山で深夜遊びました。当時線路というか車両区に勝手に入っていくのは日常化していました。    この列車は山陰のどこかで使われていたのだと思います。旧客は走行中も後ろが空いていました。
氷見線の旧客です。 高岡駅だったと思います。
  普通列車 新宮行きです。今となっては信じられませんがなんとこの旧客の夜行は大阪環状線の天王寺駅から出ていました。昔、上野からも常磐線に旧客が出ていましたが、それよりびっくりです。   新宮行きは釣り人列車といわれていました。海岸線に沿った駅に早朝訪問できるからです。
   倉吉線(鳥取県)の終着駅山守駅です。あまりにも寂しい終着駅でした。    この2つとなりに有名な関金温泉があり、当時もさんざん迷って行きませんでした。
   やっと現役です。ストーブ列車でおなじみの津軽鉄道のラッセル車です。ユーモラスな雰囲気が楽しいです。    津軽鉄道は岩木山を見ながら走る路線で景色の良さは全国でも指折りです。
   全国で生き残ったJRのローカル線でも随一の景観と雰囲気、路線長を誇る「五能線」です。    ここは「驫木」駅ですが、この様に海に迫る駅はたくさんあります。また、有名な不老不死温泉やみちのく温泉へもいけます。
   これはどこで写したのかもう全くわかりません。    ただ、この車両はもうかなり珍しいと思います。
   能登半島のローカル線、能登線の急行「能登路」です。    現在は三セクののと鉄道にかわっています。


廃止編
  廃止編も始めたらきりがありません。一時期それほど思い出の路線がばさばさ切られました。


番外編チャレンジの申請書です。


   わかる人にはわかる画像です。え、「まだ枕崎は廃止されてないぞって?」そうです。「指宿枕崎線」は廃止になっていません。この画像は1986年前後に廃止された「鹿児島交通」というスーパーローカル私鉄のホームなのです。わかる人にはわかると言ったのは、枕崎は終着駅のはずなのにとなり駅が書いてあるのですね。    当時確かあの伊集院線の丸い車両(上田交通に似ていたような)も写したはずなのですが、見つかりませんでした。貧乏学生の私にとって当時は国鉄完乗だけが至上命題であり、900円くらいだった交通費は国鉄線に往復乗って帰れば周遊券で無料という考えに支配されて、出し惜しみされました。今でもあの時乗車しなかったことを悔いています。
   こちらも一大ジャンクションだった薩摩大口駅です。ジャンクションとは当然路線が交わる駅のことで、当時国鉄宮之城線(川内ー薩摩大口間)と山野線(水俣ー栗野間)が交わっていましたが、なんと両方共廃止されてしまいました。    今でも生き残っていれば、薩摩北部の湯之尾温泉始めゲキシブ温泉郡を鉄路で訪ねられたはずです。また、山野線には肥薩線と同じくループがあったと記憶しています。
   筑豊炭坑路線の上山田線と漆生線(福岡県)のジャンクションだった下山田駅です。なんとこの駅名票にある4つの駅は全て消滅しました。    この辺の路線は田川後藤寺が生き残り、糸田線も三セクの平成筑豊鉄道に併合されて、結構残ったのですが、添田線と併せて3つは記憶の中の鉄路となりました。
   今や日南線の終着駅志布志です。これはこれで盲腸線の終点としては指宿枕崎線といい勝負で、てっちゃんには楽しいかも知れませんが、志布志線と大隅線が現役だった時代には3本の路線が交わるジャンクションでした。    このうち大隅線はたびたび旅と鉄道誌に取材を受けるなどローカル線としては全国に誇る景観の路線でした。錦江湾沿いに桜島を遠望するその景色は指宿枕崎線とはひと味違うもので、できればもう一度復活してほしいものです。
   美祢線(山口県)の大嶺支線です。昔はこの手のひげチョロ路線が多かったですね。    一番思い出深いのは湧網線(北海道)の湧別ー中湧別支線でしょうか。一日わずか2往復でした。
   ここもいつのまにかなくなっていました。昔は出雲大社にお参りに行く方のために普通列車山陰始め多くの列車が大社行きだったのですが。    まるで、道後温泉本館や竹瓦温泉を彷彿とさせるようなあまりにも見事な駅舎です。恐らく駅舎だけは今でも見られると思いますので、亡き大社線に思いを馳せてください。


   幻の仮乗降場、四号線です。北海道以外にお住まいの方には文化がないと思いますが、北海道の鉄路は人跡未踏の地を走っているものがおおく、人があまり住んでいない地域にも乗り降りの場所は必要だが、駅を作るにはもったいないという場所がたくさんあるのです。仮乗降場とはバス停に似たもので、汽車の高さに足場を組んだステージ状のものをいいます。左下に見えている木の板がその足場でこの下には支えている骨組み以外には何もなく下に潜り込むこともできます。    で、何が幻かと言いますと、上述のミニミニデータ編の通り、この中湧別ー湧別間の湧網線のひげチョロ支線は一日2往復のダイヤしかなく、もしここで仮に朝7時の汽車を降りたら、次の汽車は17時まで10時間ありません。(というかダイヤ見えてますね。駅票の下の数字です。ほんと笑いがこみ上げてきます)
   ここも今となっては幻と言っても良い位忘れ去られた路線です。当時石北本線の美幌駅から阿寒湖に向けて国鉄線が延びていました。国道240号に沿って、釧北峠の手前の相生という集落までです。    だいたい阿寒湖まで5qくらいの位置に駅があったような気がします。今まだあったらあのバカ高いバス運賃を払わず、阿寒湖まで歩く人がいたことでしょう。


  五能線と共に全国でも屈指の大海原眺望路線だった羽幌線(北海道)です。上下両方の画像とも背後に写っているのが私が乗った羽幌線の列車で日本海を眺めて走るその窓外の景色はものすごいものでした。   なんと言っても地図を見てもらえば、わかると思いますが、留萌を出た後、増毛山地が海ぎりぎりまで迫り、平地がほとんどない所に国道と線路を通したので、ほぼ海と並行しています。鉄路は中でもやや高い場所を走っていましたので、とにかく景色が良かったです。


   廃止された「富内線」(北海道)の日高町駅です。そもそも本線と名乗っておきながらローカル線同然の「日高本線」から更に鵡川駅で分岐していました。途中アイヌの風習が色濃く残る「二風谷」を通るいかにも北海道らしい路線でした。    昔はここと帯広を繋ぐ国鉄バスの路線があり、なんとこんな大雪の山中の盲腸線が折り返しなしの旅を可能にしていたのです。国鉄バスは日高本線の様似から襟裳岬を経由して旧広尾線の広尾駅まで出ていたので、どちらのルートを通るか悩みどころでした。


   伝説のオホーツク本線(仮称)の一端を担うはずだった興浜北線と興浜南線です。国鉄の路線は結びつける両端の都市または旧国名を一文字ずつとってつけたものがおおく、興浜線の場合も浜頓別と興部を結ぶ路線としてそれぞれの終着駅「北見枝幸」と「雄武」の間には完成間近の路床がすでにつながっていたと言います。    もし結ばれていれば、当時まだ天北線も名寄本線も湧網線もありましたので、稚内発網走行きという正にオホーツク本線とも言うべきダイヤが可能だったといいます。(ちなみに1970年代に廃止された斜里から出ていた根北線も貫通していれば根室行きも夢ではありませんでした。根北線は越川温泉を訪ねる折りになど根北峠越えの国道244号を走行すると廃止された橋脚が見えるところがあります)


   こちらも伝説の、人という字を書く標津線の路線です。標津線は標茶から羅臼側の知床の入り口根室標津駅(当時も今も士別という駅が宗谷本線にあるので根室が冠されました)と途中の中標津駅から根室本線の厚床駅を結ぶ変則の二股路線でした。    北海道の根釧原野を一度でも走行されたことがある方は、中標津ー厚床間がどんな場所なのか想像に難くないと思われます。開陽台を横切って別海町を貫く路線は宗谷本線の抜海付近と並んで日本で窓外に地平線が見える数少ない路線でした。



変わった駅名編


   有名な徳島県の「学」駅です。受験のお守りに切符を買う方が多いそうです。    これは確か移動研究室で訪問したと思うのですが、何にも覚えていません。
   山陰本線の鎧(よろい)駅です。なんとユニークな名前でしょう。いきさつを聞いてみたいものです。この時は餘部鉄橋と絡めていきました。    餘部もどうやら鉄橋そのものが廃止の方向に動いているようでまあ、トンネル化するのが一番無難ですからね。

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