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究極の別府共同浴場リスト

  ★日本の温泉の歴史は恐らく縄文時代以前に日本に人類が誕生してからずっと続いているものと思います。当研究所はそんな日本の温泉文化を共同湯を中心に取り上げているわけですが、当然日本最古の温泉とは恐らく”野湯”であったことでしょうし、伝え聞く『千年温泉』(千年の歴史を持つ温泉)も現代の私たちが湯と向き合う形態は宿泊施設・足湯・共同湯・湯治場などなど様々です。つまりは共同湯という枠組みだけでは不十分な面が出てきてしまうのです。当研究所はこのサイトを立ち上げた時より、いつか共同湯の枠を離れ、歴史の古い温泉(温泉地・旅館・入浴施設など)ばかりを特集したいと考えていました。そんなコーナーがこの頁です。

北海道 東北 関東 中部 関西・北陸 中国・四国 九州

温泉の歴史に関するトリビア
日本最古の温泉 世界遺産登録の共同湯 温泉マークの歴史 日本最古の温泉街
日本最古の浴舎 日本最古の湯釜 日本最古の共同湯 外湯に関する考察

エリア 温泉地名 施設名 概要
北海道
              北海道の歴史はアイヌの歴史です。近世「倭人」が蝦夷地に移り住んだ後も、函館は幕末の五稜郭なども有名ですが、ゆっくりゆっくりアイヌとの交流の地が広がっていき、またいさかいも発生したそうです。(コシャマインの乱やシャクシャインの乱などが有名、コシャマインの乱は1400年代に起こっています)。そして江戸時代には松前藩という倭人の自治体も置かれましたが、その先は自然が深く、明治時代にやっと札幌近郊の話(クラーク博士や屯田兵など)が出てくる位です。従って湯が自然のままわき出していたであろう、摩周湖周辺や知床などにも恐らく200年という単位での歴史を持つ(あるいは来歴が分かっている)温泉はないのではないかと思います。(アイヌは文字という形で歴史を刻んでいないのです。そんな中北海道最古の湯は1000年にわずかに届かない750年前の温泉らしいです。北海道が0というのでは寂しいですので、この道内最古の湯と呼ばれる知内温泉をリストのトップに載せたいと思います。
       知内温泉 知内温泉 和楽園   知内温泉は西暦1247年に書かれた古文書にすでに登場していたそうです。つまり今から凡そ760年前ということになります。1000年には届かないのですが、100年も生きられるかどうかの人類からすると700年も1000年も気が遠くなるほどの昔な上、北海道においては鎌倉時代の記録など大変貴重だと思いますので、敬意をもって掲載します。いわく、『北海道の歴史を記した古文書『大野土佐日記』に、この知内温泉の記録が残っている。それよると、鎌倉時代の宝治元年(1247年)に甲州(現山梨県)の城主の下命を受け、金山探しのために渡道した荒木大学が、知内に城を構える折に豊富な泉源を発見したという。したがって、知内温泉は今から760年以上も前に開湯した道内最古の湯となる。』と。
 ちなみに、この荒木大学という人は北海道に居住した和人の第一号ともいわれているそうですが、こちらは確証はないそうです。また寛文5年(1665年)には、松前藩の九代城主の奥方が「御入浴せり」との記録もあり、その頃すでに入浴施設があったと推測されているそうです。現在の知内温泉は何代にも渡って所有者が変わって今に至っていますが、豊富な源泉は敷地内に5本以上有り、自然の濃さも相まって、「ただ発見され記録に残っているのが750年前なだけです」といわんばかりの迫力があります。


エリア 温泉地名 施設名 概要
東北
青森県 奥薬研温泉 かっぱの湯・
夫婦かっぱの湯 など
  奥薬研温泉は西暦862年に第3代天台座主「円仁」が発見したと伝わっています。円仁とは最澄(有名な「最澄と空海」の「最澄」、日本初の仏教・天台宗の開祖で現在も伝わる比叡山延暦寺を開いた人)の弟子で「円仁・円珍」が有名です。すでに自然に湧いていた湯に河童が怪我をしていた円仁を案内したという由来から「かっぱの湯」などの露天風呂がありますが、奥薬研温泉には宿泊施設がありません。
   蔦温泉 蔦温泉旅館(一軒宿)   蔦温泉は文献によれば西暦1147年にはすでに湯治用の湯小屋が存在していたと伝わります。すなわちいつからそこにあったのか突き止められないわけです。誠に勝手ながらそういう訳でこのリストに加えます。蔦温泉は全国でも大変珍しい泉源に直接湯舟をしつらえた「足下自噴泉」です。八甲田山中にある周囲のロケーションは湯治でも保養でも実に心安らぐものであり、全国的にもかなりのハイレベルな位置にある温泉だと思います。
岩手県 大沢温泉 大沢温泉(一軒宿)   大沢温泉は西暦800年頃に当時蝦夷征伐【「えみし」と読みます。蝦夷(えぞ=えぞち・つまり北海道のこと)と漢字が同じ為、北海道を指すのか混同しがちですが、平安時代の「蝦夷(=えみし)征伐」とは東北地方の平定を言いました。今から1200年以上前には東北地方にも広くアイヌの方々が住んでいたのでしょうか?】の為に「征夷大将軍」に任じられた「坂上田村麻呂」が戦の中で傷つき、それを癒すために浸かったというのが最古の記録だそうです。現在でも湯治宿として名を馳せるこの旅館は素晴らしい露天風呂を持った湯治部とくつろぎの数種類の湯舟を持つ旅館部に分かれています。ちなみに大沢温泉と言えば、隣の「鉛温泉」とセットで考えたくなりますが、鉛温泉は500〜600年の歴史だと言うことです。
       夏油温泉 湯治旅館 など   夏油温泉には3つの発見伝説があり、1.慈覚大師円仁(奥薬研温泉を発見したと伝わる人)が856年に発見したとする、2.源頼光の家臣で渡辺綱が鬼の片腕を切り落とした(西暦900年代)が、その鬼が夏油の湯で傷を治し、腕が元通りつながったというもの(之には鬼=外道がなまって「夏油」になったという名称の由来伝説まで含みます)3.平家の落武者(つまり800年ほど前)の子孫が傷ついた白猿をおって行くと猿が湯で傷を癒していた というものです。どれをとっても気が遠くなるくらいのお話なので歴史が古いのだなあとわかります。現代の夏油温泉は川沿いの露天が有名で一度は行ってみた方がよいという温泉です。
       台温泉 旅館   台温泉にも2つの伝説があり、1.坂上田村麻呂の蝦夷征伐の折り発見された、2.凡そ600年前山中に猟師が獲物を追い、偶然発見した というものです。猟師の発見にまつわる話はきちんと文献があるらしいのですが、坂上田村麻呂の話は口頭による伝聞(まあ、西暦800年頃に文字を書ける人はそう多くはなかったでしょう)なのだそうですが、現代人にとっては1200年だろうが600年だろうが気が遠くなるほど昔なので、1200年前の発見と言うことで良いと思います。
秋田県 鷹ノ湯温泉 鷹ノ湯温泉(一軒宿)   鷹ノ湯温泉は西暦720年頃に僧行基によって発見されたと伝わっています。行基という方は日本で最初の社会福祉事業を行ったことで有名ですが、こんな「みちのく」までいらしたことがあったのですね。鷹ノ湯は秋田県最古の湯だと言うことでもあります。内湯・露天とも工夫がされており、特に露天の爽快感は素晴らしいです。
宮城県 鳴子温泉 滝の湯、川渡共同湯 など   鳴子温泉は西暦835年に現在の潟沼付近の火山活動により湯が噴き出したことに由来するとも、その後少し下った西暦1200年頃の義経伝説にちなむとも言われ、どちらの説が有力にしても、「千年温泉」の名前にふさわしい温泉だと思います。
       秋保温泉 共同湯 など   秋保温泉はなんと西暦500年代にまで歴史を遡ることが出来るようです。当時の天皇の中にここの御湯で病気が治った人が居たようで、以来この地は御料地として長く皇室と関わりを持って現代に至っているそうです。秋保の旅館は有名どころは皆敷居が高く、料金的に近寄りがたいです。
       作並温泉 岩松旅館など
旅館10軒程度
  作並温泉は西暦700年代に僧行基の発見と伝わります。鷹ノ湯に続き、こちらも僧行基の名が出てきました。作並温泉は仙台の奥座敷といわれ、結構な山の中なのにわずか仙台市街から30qしか離れていません。美しい渓谷美は全て有名な広瀬川が形作っており、その渓谷を利用した中でも「岩松旅館」が一番有名です。
山形県 赤倉温泉 阿部旅館・三の丞 など   赤倉温泉は西暦863年に慈覚大師がついた錫杖の先から湧いた温泉と言い伝えられているそうです。このように「弘法大師」など昔の有名人が発見した、また「突いた」という温泉は日本各地にあり、興味深いです。
       温海温泉 共同湯 里の湯など   温海温泉は1100年も昔に弘法大師の夢枕に童子が立って湯を示したと伝えられるそうです。この温泉はそれ以外にも創業300年を越える旅館が温泉街に複数存在し、更に温泉街自体も260年以上の歴史があると言うことです。実際余り大きくない温泉街ですが、共同湯が3軒もあり、また朝市などもたち(これも歴史が古く謂われがあるそうです)、何度訪問しても楽しいところです。
       湯田川温泉 共同湯 正面湯 など   湯田川温泉は西暦710年頃に地元の方が自噴する湯を見つけたのが始まりだそうです。日本海沿いの海岸線からわずかに入った温泉街は海が近いこともあって、魚介類も豊富に食卓に上がり、小さな共同湯と相まって素晴らしい風情を醸します。
       蔵王温泉 共同湯・自家源泉宿 など   蔵王温泉は西暦110年頃の発見と伝わります。その発見談にはなんと伝説の日本武尊まで登場してきます。(日本武尊は架空の人物とされています)ただ、実際の発見者はその部下の「吉備多賀由(きびのたかゆ)」という将軍であり、その名前をとって古くから最近に至るまで「多賀由温泉」「蔵王高湯」と呼称されていたというので、あながち発見談そのものを眉唾とは扱えないようです。蔵王は個性泉が光る自家源泉宿と同じくどれをとっても超一流の3軒の共同湯が楽しめる全国的にも珠玉の温泉街です。
       肘折温泉 共同湯・自家源泉宿 など   肘折温泉は西暦807年頃の発見と伝わります。当時豊後国(今の大分県)の源翁という老人が各地の名山霊地巡りをしている時にこの温泉と出会い、その後この地が気に入った老人は妻子を呼び寄せ暮らしたという伝説が残っているそうです。(しかし現代人の我々でさえ、別府に行くのは一苦労なのに、当時(平安時代)道もろくに整備されていない時代に、九州の大分から東北の山形までどうやって移動したのでしょう?)肘折温泉も蔵王と同じく独自源泉宿と共同湯がこれでもかと言うくらいある場所です。お勧め。
       赤湯温泉 共同湯 など   赤湯温泉は西暦1093年に八幡太郎義家の弟が傷を負った兵士を入浴させるのに使ったという伝承が残る温泉地です。正確に計算するとわずかに1000年に足りませんが、見逃してください。共同湯はあずま湯・とわの湯などが素晴らしいです。
       小野川温泉 共同湯 など   小野川温泉は西暦800年頃に小野小町が京の都からお父さんを捜しに来て、病気になってしまい、それをこの小野川温泉の湯に浸かって直したという伝承が残っています。
福島県 いわき湯本温泉 上の湯・東湯 など   いわき湯本温泉は西暦927年に記述があるのが「記録上」の最古らしいですが、推測も交えると「奈良時代」(西暦700年代)から湯が利用されていたとされているようです。この温泉は含硫黄・塩化物泉ということで「卵臭がする塩味」で温度が約60度という貴重な物です。共同湯は一般には「さはこの湯」が有名ですが、実は「上ノ湯」こそ真のお勧めです。
       飯坂温泉 共同湯 など   飯坂温泉は大沢温泉同様、坂上田村麻呂が東北征伐の折りに発見されたと伝わる温泉ですが、9つの浴場の中では、鯖湖湯が以前日本最古の共同湯ということで有名でしたが、実は坂上田村麻呂ゆかりの共同湯、つまり飯坂温泉の発祥は「波切湯」だったそうです。意外ですね。
    土湯温泉 公衆浴場など   土湯温泉は聖徳太子の時代の発見(西暦600年頃)と伝わります。聖徳太子の父用明天皇が病に倒れた時、病気回復と仏教布教の為遣わされた秦河勝が東北地方に達した時、自らも病に倒れてしまった際、聖徳太子が夢枕に立ち、この温泉(土湯)を示したと伝承されているそうです。
       東山温泉 旅館 向瀧   東山温泉は西暦740年頃僧行基が発見したと伝わっています。東山温泉は点在する旅館の総称として用いられている側面もあるようで、温泉郷と呼称することもあるようです。その中にあって最も有名だと言っても良い旅館「向瀧」は会津藩の保養所として用いられ、名称は今も内湯に残る「狐の湯」というものだったそうです。
       二岐温泉 旅館 数軒   二岐温泉は西暦810年頃の発見と伝わっており、当時天皇の座にあった嵯峨天皇が病床にあり、その使いの者が東北によこされたおり発見したそうです。深山幽谷の中に点在する二岐温泉の旅館群は「渓流沿いの露天風呂」を自慢にしている宿が多く、中でも「大丸あすなろ荘」は渓流露天の他に泉源を直接湯舟とした「足下自噴泉」の湯舟を持っています。
    大平温泉 旅館・滝見屋   大平温泉は修行僧が西暦860年に発見したと伝わっています。
    五色温泉 宗川旅館   五色温泉はなんと大和朝廷時代の白鳳年間(西暦654年〜669年の間)と伝わります。この頃全国を行脚して回った行者達の祖と呼ばれる「役小角(えんのおづの)」が修験中に木々の間から鮮やかな5色の湯煙を目にしたという。発見から現在に至るまで「伊達」「蒲生」「上杉」などそうそうたる有名武将に稀代の秘湯として受け継がれてきたのがここ五色温泉だそうです。


エリア 温泉地名 施設名 概要
関東周辺
長野県 浅間温泉 共同湯 など   浅間温泉ははっきりとした史実としては(つまり文献に表れた)西暦939年に発見されたと伝わっています。発見したのは豪族の犬飼氏と言うことで、以来武士(侍)の湯としての性格を刻んできたようです。しかし、それよりも遙か昔の西暦685年には日本書紀の中で有名な壬申の乱の勝者天武天皇が信濃地方の温泉に行幸に行く予定(之は結局実行されなかったらしいですが)が発見されており、その時の行幸予定地が浅間温泉であったとすると言う推測が為されており、浅間温泉は開湯1300年をうたっています。現代の浅間温泉にはその歴史を正しく証明する数々の歴史ある共同湯が残り、その中の一つには「松本藩の共同湯」という看板が下がる「倉下の湯」や芸者さんの控え所だったとあるジモ、武士専用の共同湯合ったという某ジモなど来歴がはっきりしている古い共同湯が多い場所です。 
   野沢温泉 共同湯 など   野沢温泉は様々な発見伝説が伝わっている温泉です。その中で一番古いものはお約束の僧行基の発見と伝わり西暦750年頃だそうです。この他にも修行中の山伏が見つけたという話や、手負いの熊を追いかけてきた猟師が発見したなど様々な話が伝わっているそうですが、ここではやはり僧行基の話を信じるべきでしょう。改めてここで言うのも何ですが、野沢温泉には30を越える「自噴源泉」が現代でも存在し、その中の10本弱がk13軒の共同湯に用いられ、その他は旅館や日帰り湯に使用されています。「白」「青」「透明」「緑」など様々な顔を見せる源泉と個性的な湯小屋は何度いっても飽きることが無く、また何度いっても又行きたくなるのです。  
       上諏訪温泉 共同湯 など   上諏訪温泉はなぜか具体的な文字としてあまりはっきりとした記録が残っていないようです。ただ研究家の間では上諏訪温泉で発掘される縄文時代の遺跡からは温泉からついたのでは?ないかとはっきりとわかる硫化した黒いものがこびりついたものが出土し、1000年温泉はおろか3000年温泉とも言われているそうです。壮大なロマンを感じますね。ちなみにこの遺跡は上諏訪駅前の工事現場で見つかったものであり、今でも上諏訪の1部のエリアではエメラルドグリーンの硫黄(卵)の香りたっぷりの温泉が出ていますので、それとも符合します。
       下諏訪温泉 共同湯 など   下諏訪温泉は神話の時代のこれまた壮大なロマンを感じるエピソードが伝わっています。それは『昔諏訪大社の上社に住んでいた神様と女神様が仲違いが原因で下社に移るといいだし、その時すでに湧いていた現在の「宮の湯」を「私の化粧湯田だから」ということで綿に含ませて運び、下社で地面においたらそこから更に湯が湧きだした』、これが有名な綿の湯源泉となり、更に「女神が運ぶ途中綿から滴った湯が湖に落ちたところは、そこも湖底から湯が湧き、現在ではそのポイントだけ凍結しない」のだそうである。妙に納得してしまう壮大なお話を探ることが出来ました。
       湯田中温泉 共同湯 など   湯田中温泉は西暦640年代、天智天皇の時代(有名な壬申の乱の切っ掛けとなった人物、この人の息子と兄弟が跡目争いをした)に発見され、開湯1350年以上をうたっています。実際歴史に裏打ちされた様々な温泉文化色濃く残る地として、温泉ファンの注目を集めています。湯治宿、共同湯、洗濯湯、足湯などなどあらゆる形態があるのではないでしょうか?
       別所温泉 共同湯 など   別所温泉は塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来た温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から"七久里の湯"と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族が好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は北条氏の別荘の意であるとも言われている。江戸藩政時代には、温泉は上田藩主所有の時もあった。数ケ所の湧出口のうち、石湯・大師湯・大湯など、昔から由緒のある名湯は共同浴場として今も土地の人々に親しまれている。現存する石湯は戦国時代の英雄の一人であの武田信玄や徳川家康とも縁がある真田幸村公の隠し湯と言われている。また文献から更に古く義経とも戦った頼朝のいとこである木曽義仲もこの地を保護していたことが知られている。正に千年温泉、信州の数ある温泉の中でもトップクラスの歴史を誇ります。
       霊泉寺温泉 共同湯 など   霊泉寺温泉は平安時代に鬼女退治に訪れた武将平惟茂(これもち)が対決の際におった傷を癒すため湯に浸かり、傷が癒えた時にその霊験に感謝して「霊泉寺」をたてたことから始まると言います。歴史の古い温泉街は1度明治時代に大火で全焼し、今の町並みはその後のものらしいですが、共同湯を中心とした造りは共同湯ファンにはたまらないものです。
       沓掛温泉 共同湯 など   沓掛温泉は平安時代、国司の滋野親王が目を患い入湯したところ治ったので、薬師堂を建てて温泉守護神を崇したと伝えられる歴史のある温泉です。京都から来たこの滋野親王は裏手にそびえる夫婦山が故郷の小倉山に似ていたことからそう呼び、現在の共同湯の名前はそこに由来しているという歴史の古さです。
栃木県 板室温泉 旅館 数軒   板室温泉は那珂川上流の山あいにあり、塩沢温泉とも言われていました。この温泉は、後冷泉天皇の時代、平安の康平2年(1059年)3月に、那須三郎宗重が狩りのために山奥に入り発見したと伝えられています。古くからの旅館は、板室本村の人が隠居仕事として営んでいたもので、屋号は本村のものと同じでした。この温泉実はつい最近まで実にシブイ共同湯が加登屋さんの前にあったらしいのですが、なんと火事により焼失し、再建は図られなかったそうです。もったいないですね。
       塩原元湯温泉 旅館 ゑびす屋 など   塩原温泉は言わずと知れた10以上の極上の温泉地からなる温泉郷です。この中で元湯温泉は西暦806年頃の発見と伝わり、途中自然災害なども経て、現在では最古の源泉として「ゑびす屋」さんの「梶原の湯源泉」が有名です。元湯の湯は硫黄の香りがするものがメインですが、林間に3軒のみで構成される旅館街(?)の湯は3つも色も香りも異なり、大変個性的です。ちなみに元泉館は「緑」または「青」、えびす屋は「白」、大出館は「黒」です。
       那須湯元温泉 共同湯 など   那須湯本温泉は西暦630年代、舒明天皇の頃、一人の猟師が白い鹿を弓で射たが、傷を負いながらも鹿は逃げ、那須岳の麓で見失った。その時白髪の老人が現れ、「我は温泉の神なり、汝の射た鹿は谷間の温泉で傷をいやしておる。この温泉こそは万病に効く温泉なり、汝この温泉を上手に使い万民を救うべし」といって消えたそうだ。老人に言われるまま行くと鹿がおり、その鹿を射止めた猟師はそこに温泉を開き、神社を建立した。というのが、那須湯元温泉と温泉神社の由来だそうだ。
       湯西川温泉 共同湯 など   湯西川温泉は福島県との県境の山間に位置し、平家の落人の村として、広く知られています。壇の浦の戦い(1185年)に敗れた平家の落人、平忠実(たいらただざね)は家臣と共に、川治の最高峰鶏頂山に身を隠し、追っ手をさけての生活を余儀なくされます。ある日、忠実は山をおり川岸を散策していると、温泉が湧き出るのを発見して驚き、喜びました。そして、忠実は温泉の湧き出る所ならば子孫のうち、誰かは温泉を掘り起こすであろうと、由緒深き伝来の宝物、武具、鎧、兜、金の延べ棒等を秘かに埋めました。その後も温泉の事を漏らさず一族と共に不自由を忍び深山の生活に甘んじ続けた忠実一行は、源氏の追っ手から身を隠すため、時をつげる鳥も飼わず、五月の節句の鯉のぼりなど、人に目につく行事を避け、猟を生計に、山奥での生活を続けました。そして時が経ち1573年。伴対馬守(ばんつしまのかみ)が、湯西川の川岸を散策していると、雪が降っても、降っても積もらない所を発見しました。よく見ると、こんこんと湧く温泉がそこにはありました。そして、湯元を掘り起こしていると、沢山の財宝が出て来たのです。その後、川岸、川の中より多量の源泉が発見され、その湯量の豊富さを誇り、今では栃木県、屈指の湯治場となりました。そんな湯西川温泉では、今日でもなお、先祖が生きる為に貫き通して来た伝統を、大切に守り、子孫に伝え続けています。
群馬県 草津温泉 共同湯 など   草津温泉はここまでにも度々登場する僧行基の発見伝説が残る温泉地で、西暦800年頃の発見と伝わります。そしてこの草津の湯は現代のように宣伝の術すら無かった時代に口コミで全国にその効能が伝わった数少ない温泉で、実に様々な歴史上の有名人物がこの地を来草しています。まず草津で有名人の中で一番古い方は「白旗の湯発見伝説」の源頼朝ですが、これに先んじること40年余り、実は頼朝の親戚の「木曽義仲」も訪問しているようです。更に時代は下って、上杉謙信のお父さん、文化人では古く室町中期の連歌の祖「宗祇」、小林一茶、佐久間象山、志賀直哉 などなど有名人だらけです。
       四万温泉 共同湯 御夢想の湯など   四万温泉の歴史には2つの伝説があり、1.坂上田村麻呂が東北遠征(蝦夷征伐)の際に発見した(西暦800年頃)、2.平安中期の武将・源頼光の家臣塩谷日向守定光が山中で迷い眠ってしまい、、その夢の中で童子が「四万の病気に効く温泉を与える」といって消え去った事から、温泉地を「四万温泉」、そして四万温泉の発祥の地とも言われる最古の共同湯を「御夢想の湯」とした というものです。このどちらの説が合っていたとしても、実際四万ノ湯は1000年以上の歴史が有ることになります。ここの湯は胃腸に特効があると言うことで保養だけでなく湯治でも有名です。
       川原湯温泉 共同湯 など   川原湯温泉は若干1000年に足りないのですが、来歴がかなりはっきりとした形で残っている上に個人的な思い入れが深いので、ここに入れることにします。川原湯温泉は源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年西暦1193年にこの地に狩に来て発見したと言います。その時泉源の場所にあった石を「王石」と名付けたことから、現在の共同湯「王湯」にもその名の由来があり、また王湯の浴舎の前には源氏の家紋である笹竜胆が大きく掲げられているのだそうです。
       伊香保温泉 共同露天など   伊香保温泉は凡そ1900年前の榛名山の火山活動にて噴出したと伝わっていますが、こんな昔に文字がある訳はなく、一体どうやって分かったのでしょう(笑)。歴史に具体的に登場してくるのは日本最古の書物の1つである『万葉集』やその後に続く平安時代の古今和歌集などに詠まれていて地名が文字となって出てくるようです。しかし、この頃伊香保はまだ小さな湯治場だったようです。伊香保の特筆すべき点はこの後に現代の我々が伊香保といえば思い出す「石段街」の来歴がはっきりと分かっているということが挙げられます。日本の歴史の大きな転換点はいくつかあり、その中でも「織田信長」のエピソードは多くの歴史ファンが居るかと思いますが、その信長の合戦の歴史の中でも、デビュー戦の「桶狭間」と並んで有名な「長篠の合戦」が伊香保の石段に大きく、関わっているそうです。長篠の合戦はそれまでの戦の概念を根本から覆すものだったそうで、戦国時代最強とうたわれた武田信玄の武田騎馬軍団(残念ながらこの時信玄はすでに他界、率いていたのは息子であり、後継者であった武田勝頼)を信長が連射の効かない当時の鉄砲を用いてうち破った戦いでした。これが1575年のことでその後大きな傷を負った武田軍は甲斐の国に戻り。翌1576年勝頼の名により、迅速に傷の治療と手当が出来るように当時の伊香保温泉の傾斜地に石段を作り、その左右に温泉宿を開業させ、この全てをこれまた有名な「真田氏」(大阪城落城で有名な真田幸村のお父さん)に取り仕切らせたそうです。この事業は全国初の温泉都市計画として認められているようで、今も石段には温泉都市計画第1号の碑が残っています。
       万座温泉 旅館 数軒   万座温泉の歴史はあまりにも古く、最初の発見が何時、誰によってなのかは明らかになっていないようです。現地には坂上田村麻呂が、万座温泉で鬼退治をしたという伝説が残っているようですが、他のいくつかの場所でも推測されているとおり、遺跡からの出土品によって、温泉の利用は先史時代にはおこなわれていたといわれていますし、土器をはじめとする出土品からは、弥生式時代には人の住居があったと推測されています。だいたい北海道もそうですが、ここ万座に置いてもいかに昔と今の気候が違うとはいえ、この現代の技術を要した最新式の車でさえも運転をためらうような路面凍結や積雪が見られる場所で生活をした遺跡が見つかるというのは温泉利用以外ちょっと考えにくいと思います。ただ、ココ万座では通年人が住める様になった記録としては今から600年前の文献によると、既に現在の場所に「まんざ」という地名の仮住みの集落があったことがわかっていますが、仮住みということは、当時、寒さの厳しい万座では越冬できないものと考えられていたことが推測出来ます。ここから200年ほど下って400年ほど前には、土地の豪族・羽尾入道が万座温泉入湯の留守中に、鎌原城主に滅ぼされたという記録があり、既に万座温泉が多くの人に利用される温泉であったことがわかっています。
       法師温泉 法師温泉旅館   法師温泉は開湯1000年とも1300年とも言われる歴史の古い温泉です。この温泉地は山の中の一軒宿ですが浴室は「足下自噴泉」で湯温・湯質とも共に最高のものです。
神奈川県 箱根湯本温泉 共同湯 など   箱根湯本温泉は奈良時代西暦738年に開湯したと伝わります。これは聖徳太子の代名詞とも言える「天平」という年号の時代に当たります。ちなみに所謂【箱根17湯】でその他に歴史の古い温泉は「宮ノ下温泉が室町時代初期の1398年」、「堂ヶ島温泉が鎌倉時代の1300年頃」、「木賀温泉が鎌倉時代初期の1200年頃」、「芦之湯温泉が江戸時代初期の1660年頃」、だそうです。
山梨県 奈良田温泉 旅館 白根館   奈良田温泉は奈良時代、西暦758年に時の天皇「孝謙天皇」が病気回復のため、夢のお告げに従って入浴の為に奈良の都から現代でも交通が至便とは言えない奈良田温泉に行ったそうです。文献にきちんと残っている話なので本当のことでしょうが、天皇をお連れするとなると当然歩かせるということは少ないでしょうし、人数もそれなりの行列だったでしょうから当時の苦労はいかばかりだったかと思います。
       西山温泉 旅館 慶雲館   西山温泉は本当に山奥の一軒宿の温泉です。開湯は西暦705年といいますからまだ聖徳太子が生きていた頃で、奈良時代の前の大和時代という事になります。
静岡県 修善寺温泉 共同湯 など   修善寺温泉は弘法大師が修善寺温泉の代名詞とも言える「とっこの湯」を発見したこと西暦700年代の開湯と伝わります。また、完全に史実として鎌倉2代将軍源頼家(頼朝の息子)がここで暗殺されていますが、それが今は無き共同湯「筥湯(はこゆ)」に入浴中だったということで、すでに西暦1100年代には浴場として利用されていたのがはっきり分かっている希有な温泉です。(ちなみに今修善寺にある「筥湯(はこゆ)」は場所も元の場所でなく、建物も復元という訳ではなく、全く別物に名前だけ復活させたものです)
       古奈温泉 旅館 数軒   古奈温泉とは伊豆長岡温泉の中の1つのエリアの事で「古奈地区」と呼んでも差しつかえない場所だと思います。古奈温泉はおよそ1300年前に当たる西暦700年頃の発見と伝わります。上記修善寺温泉を発見したと伝わる弘法大師が発見前にはすでに古奈温泉に浸かっていたというのですから驚きです。ちなみに伊豆長岡温泉は100年の歴史の温泉ですが、湯が見つかる以前からこの地は「長岡」と呼ばれ、その謂われは平安時代に都人が「この地は京の長岡京(かつての平城京・平安京などと並ぶ天皇の在所)に似ている」といったことにあると伝わり、その地名の歴史も1000年だそうです。更に古奈地区の一番有名な入浴施設はあやめ湯といいますが、この名の由来も源頼朝と敵対した平清盛方の武士源頼政の奥さんが「あやめ御前」という名前で古奈温泉出身だったということです。この古奈温泉はその後鎌倉幕府の正史でもある吾妻鏡にも登場し、それによれば、鎌倉初代将軍源頼朝も挙兵前にここ「古奈温泉」や「伊豆山温泉」に浸かっていたそうです。
       吉奈温泉 旅館 数軒   吉奈温泉もここまでにも度々登場する僧行基の発見伝説が残る温泉地で、西暦800年頃の発見と伝わります。吉奈温泉の周辺には船原・嵯峨沢・月ヶ瀬・湯が島と伊豆を代表する温泉がきら星のごとく並び、正に名湯中の名湯という感があります。ただ残念ながら、わずか数年前まで風情のある伊豆らしい共同湯があったそうですが、現在では廃止されその跡地しか見ることが出来ません。
       蓮台寺温泉 旅館 数軒   蓮台寺温泉もここまでにも度々登場する僧行基の発見伝説が残る温泉地で、西暦800年頃の発見と伝わります。温泉が多い伊豆地方においても尚上位に属する湧出量は点在する旅館のほとんどが自家源泉であるという事からも伺えます。また、近年においては幕末の黒船来航の折り、ぺリー提督の最初の寄港地が下田であったため、幕末伝説も残っています。ちなみに下田温泉は蓮台寺からの引き湯とか。


エリア 温泉地名 施設名 概要
中部
愛知県 湯谷温泉 旅館 数軒   愛知県新城市にある湯谷温泉は今から1,300年以上前に「鳳来寺」の開祖、利修仙人により発見されたと伝わる千年温泉です。この近くには戦国時代で最も有名な合戦の一つである武田氏滅亡の契機となった長篠の合戦場があり、その長篠ゆかりの「長篠村史」には「仙人は温泉のすぐれた効力により心身の調和をとり、修行を極め悟りを開き(中略)実に308歳の長寿を全うした」との記録も残っているらしい。この伝説の霊泉こそ「鳳液泉」と呼ばれ、万病に効くといわれる湯谷温泉の源泉とのこと。現在も豊富な湯量を誇り、温泉街にある「温泉スタンド」では52度の源泉を100リットル100円で購入できます。
岐阜県 福地温泉 旅館 湯元 長座   福地温泉は平安時代中期に村上天皇が療養のために訪れていたと記録に残り、別名「天皇泉」とも呼ばれる歴史ある温泉です。(天皇の活躍した年数から計算すると1100年以上の歴史がある温泉と言うことになります)。ちなみにこの村上天皇とは後の世に鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇が”天皇親政”の規範とした治世を行った人物の一人です。村上天皇のお父さんが醍醐天皇だったので、”後”醍醐天皇と名前をあやかったようです。後醍醐天皇は幕府の武家政治から実権を取り戻そうとしましたが、わずか3年で結局は足利尊氏にその座を追われ、吉野の山中に逃げ延びます。
       下呂温泉 共同露天 など   下呂温泉は平安時代初期に発見されたと伝わります。温泉街から僅かに離れた場所にある湯ヶ峰と言う山が昔噴火してできたのが下呂温泉だと言うことです。温泉は最初平安時代に発見されたときには山の頂上で湧出していたそうです。ところが、鎌倉時代に発生した地震のせいでこの頂上から野湯は枯渇してしまい、次の現在も湧出している川原からの湯の発見には傷ついたサギが湯で傷をいやしていた所発見できたという伝説があることから、大正時代に作られたという下呂温泉の共同湯は白鷺の湯という名称が使われています。
三重県 榊原温泉 旅館 湯元 長座   榊原温泉はかの清少納言が枕草子の中に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記したと伝わります。この中の「ななくりの湯」とは、かつて「七栗郷」と呼ばれていた榊原の湯のことらしいです。三重県南西部、名阪間の最大の難所・青山峠の東側ののどかな田園風景の中を流れる榊原川沿いに約10軒の湯宿が連なる榊原温泉は今から約1,500〜2,000万年前に起こった地殻変動によってできた榊原断層がもたらす温泉とのことで、大和時代の人々が、「宮の湯」と呼ばれた湯元に「射山神社」を建て湯の神を祀ったといわれる古湯です。


エリア 温泉地名 施設名 概要
関西・北陸
新潟県 栃尾又温泉 旅館 など   栃尾又温泉もここまでにも度々登場する僧行基の発見伝説が残る温泉地で、西暦800年頃の発見と伝わります。
燕温泉 共同露天 など   燕温泉は平安初期に弘法大師(空海)が発見したと伝えられる歴史ある温泉地です。昔から湯治場として利用され、のどかな佇まいを見せています。冬は豪雪で温泉を利用できないほど秘境中の秘湯で、比較的入浴しやすい黄金の湯と、奥に進むと上杉謙信の隠し湯として伝えられる河原の湯があり、どちらも乳白色の混浴野天風呂です。また温泉街として開発が計画されたのは明治8年頃らしいですが、実際に温泉街が開かれたのは明治28年といいますので、意外なほど古いことがわかります。
出湯温泉 共同湯 など

  出湯温泉のある五頭温泉郷には他に今板・村杉と全部で3つの温泉があります。出湯温泉は開湯から1200年、県内最古の歴史を誇り弘法大師伝説が残る温泉で、アトピー性皮膚炎に効果がある温泉地としても全国に知られている。一番南に位置する村杉温泉は、鬱蒼と繁る老杉古松に抱かれたのどかな里。温泉の歴史は古く、1335年に足利氏の武将荒木正高が発見したと伝えられている。大正3年にはラジウムが発見された。今板温泉は、弘法大師が五島山開拓の際に源泉を発見したと伝えられる温泉。

和歌山県 白浜温泉 共同湯 崎の湯など   温泉トリビアでも取り上げた白浜温泉は日本3大古湯の最有力候補の一つです。数々の記録に登場するその温泉名は「牟婁の湯」「崎の湯」等であり、実は現代の白浜温泉はこれら2つの源泉を含む複数の温泉地の総称、つまり”白浜温泉郷”とでも呼ぶべき場所なのであります。このうち「牟婁の湯」は日本書紀や万葉集の中にも登場する温泉で、白浜最古の源泉といわれております。また、「崎の湯」は日本最古の浴場とする説もあるほど古い浴場で、記録によれば、中大兄皇子や持統天皇(これらは西暦600年代の大和時代の方々です)も入浴したという記録が残っているそうです。
       湯の峰温泉 共同湯 つぼ湯など   湯の峰温泉は工事中。
       龍神温泉 共同湯 など   龍神温泉は工事中。
兵庫県 有馬温泉 共同湯 など   有馬温泉は工事中。
       城崎温泉 共同湯 など   城崎温泉は工事中。
石川県 粟津温泉 共同湯 総湯 など   粟津温泉は奈良時代に開湯されたと伝わります。西暦718年に有名な石川県の名山・白山を開山した名僧、泰澄(たいちょう)大師が白山にて修行中、夢のおつげにより発見したと伝わります。ちなみに温泉ファンにはおなじみのギネスブックにも掲載される世界最古の温泉旅館”法師”は、粟津温泉を開いた泰澄大師が村にとどまるよう村人に懇願されたのに対して、弟子の雅亮(がりょう)を還俗させ、湯を守らせたのが旅館の初代であると伝わっており、何とも壮大なロマンを感じる温泉地となっています。
       山中温泉 共同湯 総湯菊の湯など   山中温泉は奈良時代に僧行基が発見したと伝わります。行基が菅生のお社に辿り着くと、山の向こうに美しい紫雲がたなびき、山に入れば八十余りの老僧に出会い、「ここには人々の病を直す結構な温泉がある。熱くもなし、ぬるくもなし、掘るべし」と言って姿を消されたそうです。そこで行基はお伴の侍・狩野遠久と掘ったところ、あふれるように温泉が湧いてきました。その夜、行基の夢枕に再び現れた老僧は「われは薬師如来の化身なり。永くこの湯を守るべし」と告げ、目覚めた行基はこれを喜び、丸太に薬師佛を刻んで祠をつくり温泉のお守りとしました。以来山中には多くの人々が病気を治しに訪れ、疲れを癒したとされています。それから数百年の後、戦国の世となって温泉は廃れ、山は元の静けさに包まれました。ところが平安の終わり治承の頃、能登の領主・長谷部信連がこの地を訪れ、鷹狩りをされたときのことです。一羽の白鷲が山かげの小さな流れで足の傷を癒していました。これを不思議に思い近づくと、一人の娘がどこからともなく現れ「私は薬師如来なり、ここには昔から人々の病を治すよい温泉がある。永くお前の来るのを待っていた。再びこの温泉を開かれよ」と言うや、白雲に乗ってはるか遠くに消えていきました。信連は怪しみながらもそこを掘ると、芦原の中から五寸ばかりの薬師如来が現れ、美しい温泉がこんこんと湧き出てきました。驚きも喜んだ信連は、ここに十二軒の館を築き、人々のために湯宿を開いたのが、山中温泉の旅館の始まりだと語り継がれています。〜公式HPより〜
  なお、山中温泉の開湯に関しましては、奈良時代の僧行基由来の1300年の湯という伝承と1100年代に鎌倉武士が発見したという800年の湯という伝承と2つあるようですが、いずれにしても大変な歴史ですので、千年温泉に加えました。
       山代温泉 共同湯 総湯・浴殿など   山代温泉は約1300年前、奈良時代の高僧・行基が傷口を癒すカラスを発見したのが始まりと伝わる北陸屈指の古湯です。別名カラスの湯と呼ばれ、平安時代末期には現在も温泉地内にある薬師如来が祀られ薬王院温泉寺の木祖をつくられたと云われています、明覚上人により七堂伽藍が建立され、町は大いににぎわったとされています。また戦国時代には明智光秀が訪れたと言い伝えが残っています。〜公式HPより〜
  また山代温泉の総湯、浴殿は加賀藩政時代から連綿と続く施設で、湯が涌く温泉地としての歴史だけでなく、共同湯としても歴史が古いようです。
       中宮温泉 共同湯 など   中宮温泉は開湯1200余年を誇ります。白山開山の祖・泰澄大師が、谷川で憩う傷ついた白鳩のさまを見て発見したとされる由緒にまつわる温泉です。その為か古くから鳩の湯もしくは鳩谷の湯と呼ばれ親しまれてきました。
湯涌温泉 共同湯 総湯・白鷺の湯など   養老2年(718年)に発見され、開湯1300年の歴史を誇る湯涌温泉。伝説によると、羽を休めていた白鷺が飛び立ったあとに、熱い湯が沸いていたと云われ、また一説には白山を開いた泰澄大師が発見したとも伝えられている。藩政時代には、歴代の加賀藩主の湯治場として知られ、大正6年には宵待草で知られる竹久夢二が愛人笠井彦乃を伴ってこの温泉に逗留した。以来、湯涌温泉は金沢の奥座敷として文人墨客に親しまれた。共同浴場は古くは総湯と呼ばれた。1937年に建てられた古い建造物で、1999年に改装され総湯白鷺の湯と呼ばれるようになった。
和倉温泉 共同湯 総湯など

  和倉温泉の歴史は古く、時代を遡ることおよそ1200年、大同年間に温泉が湧出したのが始まりと伝わります。 温泉は薬師嶽の西、円山の湯の谷に湧き出しましたが、その後、地殻の変動で沖合60メートルの海中に湧き口が移動。 それから時代を経た永承年間、和倉に暮らしていた漁師夫婦が、湯気立つ海で白鷺が身を癒しているのを見て、 “湯の湧き出づる浦”涌浦(わくら)が発見されました。



エリア 温泉地名 施設名 概要
中国・四国
愛媛県 道後温泉 共同湯 など   道後温泉は松山市が公開している記録に寄れば、なんとかの聖徳太子が西暦600年頃に入浴されていたそうです。この記録に寄れば、道後温泉の歴史は1400年以上も来歴がはっきりしているということになります。その他文献に寄れば、有名人では万葉の歌人、後に柿本人麻呂らと共に”歌聖”と称えられた山部赤人が道後の湯を歌ったことや鎌倉時代の僧一遍上人は伊予の国の生まれであり、道後の湯に関わりがあった、などが挙げられています。
  一方、実際に入浴する施設に目を転じれば、道後温泉で最も有名な”神ノ湯”の本館は明治27年築と伝えられ、現存する湯屋建築ではトップクラスに古く、また国の重要文化財にも指定されています。
島根県 玉造温泉 旅館 長楽園   玉造温泉は島根県のシンボルの一つ宍道湖の南岸にある温泉です。島根県は奈良時代に作られた地理誌「風土記」が今も現存する場所です。風土記は全国全ての国で作成されましたが、現代に残っているのは「出雲」「播磨」「肥前」「常陸」「豊後」の5冊で、更に出雲をのぞく4冊は欠損も見られ、ほぼ完全な形で現存するのは島根県に伝わる出雲国風土記のみなのだそうです。この本の中に以下の海潮・湯の川とここ玉造3つの温泉が文字として登場してくるそうです。出雲国風土記に記載されていることにより、一層千年温泉としての信憑性が増します。(風土記
       海潮温泉 共同湯 かじか荘など   海潮温泉は「うしおおんせん」と読みます。出雲国風土記に寄れば天平年間にはすでに温泉として知られていたとあります。
       湯の川温泉 共同湯 など   湯の川温泉も1200年以上の歴史のある温泉です。
       有福温泉 共同湯 など   有福温泉は1350年ほど前、インドの行脚僧・法道仙人によって発見されたと伝わっています。
       温泉津温泉 共同湯 など   温泉津温泉は西暦700年頃開湯。
鳥取県 岩井温泉 共同湯 など   岩井温泉は西暦859年開湯。
       関金温泉 共同湯 など   関金温泉は1300年前に行基が発見したと伝わる温泉です。 また別の資料に寄れば関金温泉は、「ラジウムエマナチオン」含有量33.47マッヘで、日本第2位のラジウム温泉であります。 その沿革は古く、延暦年中(782〜805)の開発と「日本鉱泉誌」にみることができますが、天平勝宝8年(756)開基といわれる大滝山地蔵院の創建と同時代(約1250年前)からのものとも伝えられています。
       吉岡温泉 共同湯 など   吉岡温泉は1000年ほど前に、薬師如来のお告げにより発見された古湯です。江戸時代には鳥取藩主とその一族がしばしば湯治場として利用していたといいます。温泉街のいたるところに泉源があり自家源泉を持つ宿も多く、共同浴場や足湯が昔ながらの温泉情緒を保っています。
山口県 俵山温泉 共同湯 など   俵山温泉には西暦800年頃弘法大師が創建したと伝わる能満寺という寺があったそうです。時は西暦920年頃、近所に一人の猟師がいたそうです。この猟師が山で白い猿に射掛け、傷は負わせましたが、逃がしてしまったそうです。男が必死に探し回るとやがて猿は見つかりましたが、その猿は谷川の水をかぶり傷を洗っていたそうです。猟師は今度こそと弓を絞りましたが、猿がいた辺りは霧が立ちこめ、その上には紫色の光を帯びた薬師如来が立っていて、裏山に去っていったそうです。猟師は猿が傷を洗っていた谷川に降りて触ってみるとそれは温かい水でした。そしてその水を口に含むと体中に力がみなぎってくる感じがしたそうです。この話を最初の能満時の和尚に話すと和尚は猟師に転職を勧め、この地に湯治場を作ることを勧め、病人の治療に当たるように諭したそうです。猟師は仲間を誘い、浴場を作り、その近くに実際に薬師様を祭って守護をお願いした、というのが俵山伝説です。


エリア 温泉地名 施設名 概要
九州
長崎県 壱岐湯ノ本温泉 旅館・民宿 数軒   湯ノ本温泉は「神功皇后(じんぐうこうごう)」が朝鮮出兵の際帰途に発見したと伝わっており、応神天皇を生まれた際に産湯を使わせたという伝承が残る温泉だそうです。 
大分県 川底温泉 旅館 蛍川荘   川底温泉は西暦901年、かの 菅原道真が京の都から大宰府に左遷させられた時、時の権力者藤原氏が放った刺客から逃れる為に、この地の白雲山浄明寺に身を隠し、その時に 川底温泉は偶然道真公に発見され開かれたと言います。川底温泉は文字通り湯舟の底には丸い大きな石がゴロゴロと川底の感じそのままの足下自噴泉の浴場です。もちろん混浴。
    別府温泉 共同湯など   別府温泉の昔話はちょっと笑ってしまう神話の時代に話が残っているらしい。昔大国主命と少彦名命が伊予の国(今の愛媛県)に旅をした時、少彦名命が病に倒れてしまう。大国主命はなんとかしなきゃと豊後水道に大きなパイプを渡し、別府の湯を”道後温泉”に運び、湯治させたという。しかし、日本3古湯に名を連ねる道後温泉がなぜわざわざ鮮度の落ちる引き湯をしなければならなかったのか、このお話が出来た経緯を想像せずには居られない。
       宝泉寺温泉 共同露天 など   宝泉寺温泉は西暦938年全国を巡錫(錫杖をもって巡回)していた空也上人(歴史上の有名人物。仏教の布教に努めた人で浄土の教えを説いた。念仏を踊りながら唱える”踊り念仏”でも有名で、空也上人が唱えた念仏は空中でそのまま仏様の形を為したという)がこの地で一人の猟師に殺生の戒めを説き、手にしていた錫杖を大地に突き刺し立ち去ったが不思議なことにこの錫杖はそのまま根付き杖が幹となり杉の木になったという。その30年後、地震がこの地をおそった時杉の根本からこんこんと天然温泉がわき出した。この湯が湧きだした日付は奇しくも空也上人が入滅したその日だったという。(これは随分具体的な伝承で本当なのかな?と信じたくなります)。ちなみにこの宝泉寺も実は壁湯同様足下自噴泉の共同湯があったそうですが、温泉の乱開発のあおりを受け、最後には壁湯と全く同じ運命をたどり著しい温度低下と湯量減少を招いたそうです。そして最終的に壁湯は生き残っていますが、宝泉寺の共同湯・内湯は廃止したそうです。共同露天の営業時間=8時〜21時。300円。
福岡県 二日市温泉 共同湯・博多湯 など   二日市温泉は西暦600年代に孝徳天皇によって発見されたと伝わり、現存する日本最古の歌集「万葉集」の中で有名な歌人「大伴家持(おおとものやかもち)」によってもうたわれているそうです。(ちなみに大伴家持は大宰師でした)。
佐賀県 武雄温泉 殿様湯 など   武雄温泉は西暦200年代に歴史上の有名人物「神功皇后(じんぐうこうごう)」が朝鮮出兵の際発見したと伝わっており、その名は日本最古にして現存するわずか5つしかない風土記「肥前国風土記」にも登場するそうです。(風土記とは奈良時代(710年〜794年)に各国の文化や地勢を記録したものをいいます。今で言えば、県別地図帳みたいな感じでしょうか?当時は全ての国で作成したそうですが、現世にも伝わるのは「出雲(島根県)」「播磨(兵庫県)」「肥前(佐賀県)」「常陸(茨城県)」「豊後(大分県)」の5つのみです。)武雄温泉にはその長い歴史の中でも江戸時代に作られた鍋島藩主の専用浴場「殿様湯」が現世にもそのまま残されていて、入浴出来ます。日本人にもなじみ深い幕末の有名人シーボルトも入浴したとか。
       嬉野温泉 旅館数軒   嬉野温泉も「神功皇后(じんぐうこうごう)」が朝鮮出兵の際発見したと伝わっており、同じくその名は日本最古の風土記「肥前国風土記」に登場するそうです。
       古湯温泉 鶴霊泉   古湯温泉にはとびきりのエピソードが伝わっており、いわれが本当だとしたら、なぜ日本3古湯に入ってこないのか不思議です。そのいわれとは「徐福が秦の始皇帝の命を受け、東方に不老不死の薬を求めて旅立った折り、佐賀県にたどり着き、この温泉を発見した」というものです。佐賀市や古湯温泉のHP等からするとこの温泉はおよそ2000年〜2200年前に発見されたとのことです。湯はいろいろな施設で入浴できますが、元の共同湯である鶴霊泉は”足下自噴泉”でお勧め。
熊本県 杖立温泉 露天共同湯 元湯など   杖立温泉は西暦200年代に「神功皇后(じんぐうこうごう)」が息子の応神天皇に産湯を使わせたという伝説が残る温泉です。露天共同湯の元湯がその発祥の地と伝わりますが、薬師湯や流泉湯のほうが訪問は楽しいと思います。九州では出色の温泉街を持つ湯治場。
       山鹿温泉 桜町温泉  など   山鹿温泉は日本初と言われる漢和辞典『和名抄』(934年に編纂と伝わる)の中に「温泉郷」として紹介されていたそうです。この山鹿という場所は古くから「山鹿千軒たらいなし」とうたわれた非常に湯が豊富な場所でした。温泉は意外な市街地に入浴移設が点在するような形で展開しますが、安いところが多いです。
鹿児島県 妙見温泉 和気の湯   妙見温泉のエリアに犬飼滝という観光名所がありますが、そのそばには奈良時代〜平安時代に活躍した和気清麻呂ゆかりと伝わる温泉があります。和気清麻呂とは、平安時代の僧道鏡が時の天皇の政治相談役であったときに天皇位を夢見、「宇佐八幡神社の神より神託があって自分(道鏡)を天皇にするようお告げがあった」と工作した折りにその不当性を訴えた人物です。でも結局時の天皇は実は女帝であり、道鏡は政治相談役といっても、その立場はおそらく色恋沙汰を含んだものだったので、和気清麻呂は時の天皇(孝謙天皇)の逆鱗に触れ、配流(島流しみたいな物)されました。その後結局は臣下の身で天皇位を望んだ道鏡は失脚し、配流から京に戻された和気清麻呂は後に平安京の造営に関わった。というのがだいたいの筋なのですが、この中で実は配流された場所というのが当時の大隅国(現在の鹿児島県の大隅半島側)であり、その折りに和気清麻呂は妙見温泉で自噴していた犬飼滝の周囲の泉源に浸かったらしいのです。現地には「和気公が腰掛けた石」なるものも伝承で伝わっており、見ることができます。
  湯は今も露天風呂がしつらえてある付近を中心に自噴し、浴槽は”足下自噴”、その他川原などでもあちこちで湯の湧出を見ます。


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温泉トリビア

日本3古湯
  ★ところで古いと言えば必ず話題になるのが『日本3古湯』ですが、この3つとは何を指すかで色々な説が有るようです。基本的に1番目は「有馬温泉」2番目は「道後温泉」でほぼ決まりというか、この2つをはずしている説を見たことがないのですが、あとの1つ、つまり3つめをどこの温泉にするかに関しては第1候補が「白浜温泉(和歌山県)」第2候補が「いわき湯本温泉(福島県)」そして、第3候補が「秋保温泉(宮城県)」となっているようです。どうも3つ目は「白浜温泉」を推す説が一番目にするのですが、古さだけで言えば「秋保温泉」はすごく古いですし、なにより蔵王温泉は伝え聞く西暦110年発見の温泉ですから、これらより更に古いわけです。これに関してなにかご存じの方居ますか?
 
(ちなみに更に伊豆山の走り湯も候補に挙がっているのを見たことがあります。これも入れると日本3古湯なのに6つもあります。いっそのこと後一つ(例えば古湯温泉)いれて7つにしてしまった方がいいかも?)
日本最古の温泉
  ★更に日本3古湯という呼称にこだわらなければ、日本最古の湯は他に2つ候補があります。1つは湯の峰温泉だという説です。この説に寄れば湯の峰温泉の開湯は西暦200年頃、つまり1800年の歴史が有ることになります。少なくとも文献上では平安時代(今から1000年〜1200年くらい前)に天皇や貴族はかなり頻繁に熊野古道を通り熊の三山にに熊野詣でしたそうですが、その時に「お清めの湯」湯の峰温泉を利用したそうです。(これを湯垢離場(ゆごりば)というそうです)。温泉の研究がこれだけ進んでもとりあえずの1番がどこか決められないのは少し寂しい気もします。
    もう1つは佐賀県の古湯温泉です。ここはなんと日本の歴史ではなく、東洋史にまで話が発展し、学校でお勉強したことがある方ならたいがい誰でも知っている秦の始皇帝がその部下である”徐福”なる人物に不老長寿の薬を探しに行かせ、その徐福が日本の佐賀県にたどり着き、温泉を発見したのだという伝説が当地には残っているそうです。この話が本当なら、その年号は今から2200〜2300年前になるそうです。もし本当ならぶっちぎりで日本最古ですね。


世界遺産登録の浴場(共同湯)
  ★熊野古道が2004年に世界遺産登録され、にわかに南紀ブームがおこっていますが、その際に世界で初めて、【湯の峰温泉のつぼ湯】が世界遺産登録されたそうです。これは浴場として世界初のことで、温泉王国・世界に類を見ない”PUBLIC BATH”=”公衆浴場・共同湯”の文化を持つ日本としてはアル意味最も誇らしい事なのではないかと思います。(少なくとも温泉バカには富士山が世界遺産登録されるされないより感慨深い。)ただ、そのあおりを受け、今やつぼ湯は入浴料1000円に届こうかという勢いになってきました。公衆浴場は庶民的なのになあ。(日本の共同湯はその生活温泉ぶりにこそ日常生活の中での温泉を特別なものと意識しない神髄があるのであり、そう言うところでも外国の方がみえるのに対して、「毎日毎日入浴しても懐に優しいのが共同湯」であり、外国の「治療・療養の為の湯」という文化と違うところを見せて欲しかったのですが・・・・・。)

    そして、このつぼ湯こそが現在日本では最古の共同湯とよばれております。



温泉マーク
  ★更に検索中にたまたまかかったトリビアをひとつ。それは温泉マークに関してです。皆さんよ〜くご存じの温泉マークの起源をご存じでしたか?実は日本最古の温泉マークの使用は意外なほど古く「群馬県 磯部温泉において」だったそうです。時は西暦1661年、農民の土地争いを納めた幕府の書状の添付図にはいさかいを納めた後の境界線が示されていたのですが、その場所が磯部温泉の近くだったために温泉を表すために現在の温泉マークに近いものが2つ描かれていたのだそうです。これを現代では日本最古の温泉マーク使用と捉え、現地の磯部公園内には「温泉記号発祥の碑」が建っているそうです。
  しかし、この後このマークは広まりませんでした。これを全国に広めたのは別府温泉発展の祖「油屋熊八」だったそうです。熊八は別府温泉大好きの方ならすぐに思い浮かぶ別府の「亀の井」というグループ企業の「亀の井旅館」の創業者だったそうですが、自分の旅館に人を呼び込むためには別府を観光地として売り出し、別府全体が発展しないとだめだという、現在の温泉成功の最先端を行く「熊本県 黒川温泉」の発想を早くも考えついた人だったのです。熊八はこの後自分の旅館の経営はそっちのけで、次々とアイデアを絞り出し、生かしていったそうです。様々な熊八のアイデアの中でも、現在最も有名なのは、「別府の地獄巡りツアー」であり、そのツアーのために日本初の「バスガイド」さんを誕生させました。(ちなみに別府観光港も熊八が作ったものだそうです。当時鉄道の便より、舟で大阪から観光客を呼び込んだ方が良いとすでに考えていたのですね)そしてこれらの熊八のアイデアの一環の中に「温泉マーク」があったそうです。そして別府温泉の発展と共に「温泉マーク=温泉浴場」というイメージが日本中に定着していったそうです。現代では熊八は人の手形(つまり5本指)から温泉マークを連想したというのが定説です。
  しかし、世界的に見るとドイツの地図ではすでに1800年代には普通の地図に温泉マークが使用されていたそうで、日本では1879年に日本国陸軍が正式に採用したという記録が残っているそうです。
  いかがですか?世界的に温泉を科学している療養王国のドイツよりも200年も前に日本で温泉マークが使われていたというのは興味深いですね。それから、今回の検索でもうひとつだけ分かったことがあります。それは「韓国」のお話です。皆さんご存じの通り、韓国は1900年代の前半は40年の長きに渡って日本に併合されていたわけですが、21世紀
の現代でも韓国のマップでは「温泉マーク=旅館」を示すそうです。日韓併合の影響はこんな所にも表れています。



外湯に関する考察
  ★日本の温泉の歴史は野湯の利用に始まり、じきに人が集まる場所に自然と湯を囲むように施設ができ、それが共同湯になっていったと考えられます。様々な文献や識者が示すとおり、日本の温泉地にはどんなに歴史が古く又有名な場所でも基本的に宿には浴室が無く、湯は源泉のある場所に共同湯のみがあり、その温泉地に宿泊したり、湯治したりする人は皆歩いて共同湯まで来ました。やがて、時代がかわり、少しずつ人々の暮らしが豊かになってくると段々旅館の内部に浴室を設け、サービスの一環として、入浴をうたうようになりました。このときに初めて、「内湯」という言葉と「外湯」という言葉ができたと思われます。
    さて、本題はここからなのですが、この外湯、基本的に源泉があった場所にある共同湯のことを指すわけですが、この温泉地の一番大本にある共同湯は地方によって「元湯」「大湯」「総湯」などと呼び方が違うことに気づかれますでしょうか。

    元湯とは全国的に最も普通に使われている言葉で、共同湯に限らず、温泉地における元祖・開湯の地・湯元などの意味で広く用いられており、特に”東北””関東””関西””山陰””九州”で目立ちます。

    ここで、上記にあがらなかった”東海””中部””北陸”では、残る「大湯」「総湯」という言葉が目立ちます。

    このうち、大湯は東日本に多く、東北(下風呂温泉大湯・秋田大湯温泉×2、青根温泉大湯・銀山温泉大湯・新潟県大湯温泉)に5〜6軒見られますが、特に長野県の北信エリアに集中しており、なんと長野市の周辺だけでも実に9軒もの大湯が存在し、その中でも更に7軒が山ノ内町の湯田中・渋温泉郷にあります。(9軒の内訳は野沢温泉大湯・湯田中温泉大湯・安代温泉大湯・渋温泉大湯・星川温泉大湯・穂波温泉大湯・角間温泉大湯・熱の湯大湯・山田温泉大湯です)。似たような表現ですが、なぜ「大湯」「元湯」という言葉が使い分けられるのか興味深いところです。

    更に「総湯」というユニークな言葉は北陸の旧加賀藩エリアで主に用いられているようです。総湯がある温泉地は”和倉””粟津””山中””白峰””桑島””湯涌””片山津””山代””加賀八幡”などとなっており、見事に旧加賀藩(石川県)内です。この総湯という言葉は文字通り総=惣から来ています。惣とは中性に始まりを見る人々の集落が集まった場所の総称で今で言うところの村に当たるそうです。つまり「総湯」とは「惣の湯(惣湯)」=「村の湯」ということになり、まさに外湯=共同湯の起こりからその歴史を象徴している言葉だと思います。

    ではなぜ、全国にあった惣(村)の内、加賀藩の物のみが「惣湯」と呼ばれ今日に至っているのでしょう?(他の地域では大湯・元湯というのにです)推測の域を出ませんが、やはり京に都があった江戸時代の開始当初まで自然な人の流れがあった場所は限られ、今でこそ江戸=東京と京都を結ぶ交通網は東海道として整備されていますが、鎌倉・室町時代の当時は主な交通網は山陽道と北国街道であったのではないかと思います。その道筋で、掘削されたのではない昔からの自然湧出泉が一番確認されている千年湯がある地域は結局”加賀の国”だったのではないかと考えています。

 
参考:温泉地における「外湯」の考察(安達清治)



日本最古の浴舎(温泉建造物)
  ★これは四万温泉の積善館本館らしいです。元々積善館の当主は西暦1690年頃にこの場所に浴場を作ったと言います。築300年以上を誇る積善館本館は柱や雨戸は当時のまま、他の場所には何度か改装が入ったそうですが、基本的には全てが創業当時のままの状態で所々木材が新しくなっているだけなのだそうです。ちなみにここ積善館の有名な5槽の湯舟からなる美しい浴室「元禄の湯」はここから名前が来ているのですね。(但し現在の元禄の湯は大正時代のものらしいです)


日本最古の共同湯
  ★これは湯の峰温泉のつぼ湯らしいです。


日本最古の温泉街
  ★これは現存し、かつはっきり来歴がわかっているものとしては【伊香保温泉】と【あつみ温泉】が候補らしいです。どちらの温泉もはっきりと起源が分かっていますが、伊香保温泉は温泉街と表現をうたっていないので、200年ほどの遅れをもって、あつみ温泉も候補に挙がってきます。詳しくは当研究所のレポートをご覧下さい。


日本最古の湯釜
  ★これは道後温泉の湯釜らしいです。愛媛県の有形文化財にも指定されているらしく文献上でも確認されているもののようです。(参照・松山の1番
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